大和証券の歴代社長
名前 | 実績・評価・経歴など |
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荻野明彦(おぎの・あきひこ)【就任期間】 2024年4月~ |
理系出身ならではのAI活用に期待。
就任時の年齢58歳 発表日2023年12月22日 就任日2017年4月1日 直前の役職副社長 同時に行われた幹部人事中田誠司社長は会長
出身静岡県 大学早稲田大学理工学部(1989年卒業) 入社年次1989年(平成元年) 社内キャリア企画と人事の経験が長い。2008年10月1日から秘書室長。
その後、社長の懐刀である「経営企画部長」に就任。
当時の鈴木茂晴社長の右腕になった。
後任の日比野社長や中田社長の時代も、
社長のブレインとして成長戦略の立案や他業種との提携に取り組んだ。
就任前の実績ワーク・ライフ・バランス推進エクシブ投資顧問によると、2008年4月に人事部内に設置された「ワーク・ライフ・バランス推進室」(人員7人うち専任1人)の初代室長に就任した。子育て中の残業免除や有給休暇といった既存の制度の利用率向上を図った。長時間労働是正にも取り組んだ。会議の効率化などを社内に提案した。 刀(かたな)との資本提携専務時代の2020年1月、刀(かたな)と資本提携を結んだ。 140億円を出資。 沖縄県北部のテーマパーク「ジャングリア」に資金を投じた。 |
中田誠司(なかた・せいじ)【就任期間】 2017年4月~ 2024年3月 <インタビュー> |
地味なキャラクターだが頑張った。
就任時の年齢56歳 発表日2017年1月30日 就任日2017年4月1日 直前の役職副社長 同時に行われた幹部人事日比野隆司社長(当時61歳)は代表権のない会長に
出身東京都 大学早稲田大学政経学部(1983年卒業) 入社年次1983年(昭和58年) 社内キャリア法人部門の担当が長かった。社長になる直前は個人営業の責任者を務めていた。
就任前の実績個人営業の改革営業本部の推進体制を180度変えた。本部主導で個別商品の販売目標を決めていたが、支店に決めさせることにした。長らくトップダウンだった営業がボトムアップに変わった。
就任後の実績・取り組みラップ口座の残高を伸ばす株式市場の動きに左右されにくいストック型収入による資産管理型ビジネスの確立に取り組んだ。 その一環として、顧客から預かった資産を一任して運用する「ファンドラップ」の販売に力を入れた。 結果として、ラップ口座の1契約当たり残高は業界平均よりも伸びた。 また、投資信託の残高に応じた手数料をもらう「投信フレックスプラン」を拡大した。 ゆうちょ銀行の活用提携先のゆうちょ銀行でファンドラップの販売を始めた。40名のサポート部隊をつくり全国7カ所に配置。各地域のゆうちょ銀行の販売支援に乗り出した。 チーフ・インベストメント・オフィス
2021年、高度な投資戦略を助言する「CIO準備室」を立ち上げた。個人投資家を対象に、機関投資家と同等な高度な運用戦略を使って、顧客の資産運用全体をアドバイスできる体制を構築するためだった。
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日比野隆司(ひびの・たかし)【就任期間】 2011年4月~ 2017年3月 <就任会見> |
国内の個人営業を強化した。海外では東南アジアなどで提携戦略を推し進めた。 就任時の年齢55歳 発表日2011年2月1日 就任2011年4月1日 直前の役職副社長 就任の背景グループ本社に加えて、「個人ビジネス」「法人ビジネス」の2つの子会社のトップを兼ねた。
同時に行われた幹部人事鈴木茂晴社長(63)は代表権のない会長に
出身岐阜県 大学東大法卒
入社年次1979年(昭和54年) 社内キャリアリテールの経験がなかったため、役員になってからリテール部門の経営会議に出席するようになった。
抱負「大和証券と大和証券キャピタル・マーケッツの子会社2社の連携と、グループ本社を含めた3社の経営効率を高める必要がある」
実績・取り組み個人部門と法人部門を合併2012年4月、傘下で個人向け業務を担当する大和証券と、法人向け業務を担当する大和証券キャピタル・マーケッツ(CM)を合併した。
海外縮小2011年、海外で300人を超す人員削減を打ち出した。ロンドンや香港で実施してきた自己運用部門を撤収させた。
サービス縮小2011年、国内株式や個人向け国債の「ダイワPTS」や店頭CFDの「ダイワ株X」のサービスを終了した。 ネット専業「GMOクリック証券」と提携2015年、インターネット専業証券「GMOクリックホールディングス」と資本提携した。親会社GMOインターネットからGMOクリックの発行済み株式総数の9.6%を約100億円で買い取った。GMOクリックはFXの最大手。
業績2014年3月期に最高益を更新した。 |
鈴木茂晴(すずき・しげはる)【就任期間】 2004年6月~ 2011年3月 <会長時代の講演> <日証協会長時代のテレビ出演> |
就任時の年齢57歳 発表日2004年4月17日 就任日2004年6月の株主総会後の取締役会 直前の役職子会社の大和証券SMBC専務(2002年6月から) 同時に行われた役員人事清田瞭・大和証券SMBC社長(当時58歳)は大和証券グループ本社副会長に。
大学慶応大学経済学部(1971年卒業) 入社年次1971年 社内キャリア投資銀行業務の経験が長かった。
就任前の実績住友銀行との資本提携交渉をまとめた住友銀行との提携交渉をめぐり、前任の原社長から担当に指名された。交渉人として箔をつけるため、ヒラ取締役から1年で常務になった。
実績・取り組み個人部門を強化社長就任時、法人部門ばかりが脚光を浴びる状態が続いていた。支店の営業部隊はしらけ、くさっていた。個人営業部門はしっかり稼いでいたが、正当に評価されていないという不満が、支店の現場に漂っていた。
三井住友との提携解消2010年、法人向け証券分野で三井住友フィナンシャルグループとの提携を解消した。これにより、銀行グループに左右されないフリーハンドを持つことができた。
資産コンサルタントを支店に配置個人が証券会社に投資を一任する「ラップ口座」をテコに、預かり資産を積み上げる戦略が一定の成果をあげた。「資産コンサルタント」と呼ばれる専門家を支店に配置し、相続を含めた幅広い顧客ニーズに対応する試みで先行した。これらは主に中高年層をターゲットにしたものだった。 ネット証券2010年7月からネットの信用取引の手数料を業界最低水準に下げた。 社内の不祥事増資インサイダー鈴木氏が退任した翌年の2012年7月、大和証券は、傘下の旧大和証券キャピタル・マーケッツ(CM)社員が企業の増資情報を公表前に漏らしたとする「増資インサイダー」を巡る社内調査結果を発表した。
社長退任後のポスト代表権のない会長 財界・団体・社外活動日証協会長2017年から日本証券業協会(日証協)の会長を務めた。2021年6月退任。
東京都顧問2021年2月、東京都の顧問に就任した。都顧問は小池百合子知事に助言する非常勤特別職。国際金融都市構想の推進や環境先進都市の実現に向けて、鈴木氏の知見や経験を生かすことが期待された。 |
原良也(はら・よしなり)【就任期間】 1997年10月~ 2004年6月 |
54歳という若さで就任した。前任社長が、総会屋への利益供与事件の責任を取って退任せざるを得なくなった。社長だけでなく、代表取締役7人が一斉に退陣した。これを受けて。社内序列19番目だった原氏が、一気にトップに抜擢された。 就任時の年齢54歳 発表日1997年9月24日(臨時取締役会) 就任日1997年10月1日付 直前の役職常務 就任の背景決定の1週間前の1997年9月18日、総会屋への利益供与事件で、東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が大和証券に家宅捜索に入った。
同時に行われた幹部人事代表権を持つ7人が一斉に顧問に退任。具体的には、江坂元穂社長、土井定包会長、同前雅弘副会長の3人と楠田氏を除く4人の副社長。
若返り前の土井・同前・江坂の3氏の平均年齢が63.3歳だったのに対し、今度の楠田・原・清田3氏は55歳。8歳以上若返った。 生年月日1943年(昭和18年)4月 出身大阪府岸和田市 子供時代父は税関職員だった。母は裕福な織物工場の娘だった。
大学和歌山大経済学部卒
入社年次1967年(昭和42年) 社内キャリア最初の赴任地は大阪・難波支店入社後の最初の赴任地は大阪・難波支店だった。営業の担当になった。敬老の日に顧客へ敬老を祝う電報を送り、喜ばれたという。
役員秘書に1980年(昭和55年)に東京本社に異動になり、役員秘書になった。1980年11月末という時期はずれの異動だった。
法人部門に1年半で事業法人部門に異動した。1982年(昭和57年)の事業法人第1部の課長に始まり、担当常務を卒業する1997年(平成9年)春までの15年間は、バブル経済の生成から崩壊後の後始末に至る過程だった。そのど真ん中にいた。
就任時に会社が直面していた課題危機的な状況原氏が社長に就任した1997年は、証券・金融業界にとって、暗黒時代の幕開けを告げる年だった。
1998年も続く混乱1998年になっても株価は下げ止まらず、経営危機は証券から銀行へ飛び火した。
住友銀行との提携そこで、原氏が選択したのは徹底した住友銀行(現:三井住友銀行)との提携だった。社長就任後間もなく、住友銀行の西川善文頭取と会談した。
持ち株会社純粋持ち株会社形態によるグループの再編も行った。国内上場企業で初めての持ち株会社制への移行だった。 過去の清算7年間の社長在任中、過去の清算に取り組んだ。 社長退任後のポスト代表権のない会長に退いた(当時61歳)。 |
江坂元穂(えさか・もとお)【就任期間】 1992年3月~ 1997年9月 |
就任時の年齢57歳 発表日1992年3月11日 就任日1992年3月11日 就任の背景評価損の出た顧客の株式を転売する「飛ばし」を、大和証券が行っていたことが発覚した。大和証券は800億円を超える賠償金を支払うことになった。
前任者も不祥事で退任前任の同前氏も1989年10月当時、損失補てんで土井社長が事実上の引責辞任したのを受け、後任に就いた。同前氏の在任中の1991年に再び損失補てんが発覚した。そして、また「飛ばし」事件が明るみにでた。 同時に行われた幹部人事同前雅弘社長はヒラ取締役へ降格
生年月日1935年(昭和10年)。 出身東京都。父親は、芝浦工機(東芝機械)取締役の江坂喜三郎氏 大学東京大学農学部
学生時代学生時代は農業経済を専攻し、経済学者のシュンペーターを信奉した。大学の卒業論文のテーマは「価格論」。当時はちょうど価格形成で「利回り論」など新たな理論も注目されはじめた時期だった。
入社年次1959年(昭和34年) 社内キャリア引き受けや金融法人担当などを中心に歩いてきた。
就任前の実績管理本部、監査本部、システム本部の担当役員として、一連の不祥事の後の社内管理体制見直しの先頭に立って来た。 就任時の人物評社内評価は「温厚な人」。「部下の話をじっくり聞き、決して怒らない」という評価。「証券界には珍しいジェントルマン」との声もあった。
趣味などテニス、囲碁、観劇、バイオリン演奏など。囲碁は5段の腕前。
実績・取り組み機構改革社内の機構を改革した。株式部、転換社債部など商品別に組織していたのをやめ、機関投資家向け、個人客向けなどとして、1人の顧客には1人の社員が株も転換社債もワラント債も責任をもって売れるように改めた。
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同前雅弘(どうぜん・まさひろ)【就任期間】 1989年10月~ 1991年3月 |
長期政権だった土井・前社長の抜擢によって社長になった。しかし、「飛ばし事件」によってわずか1年半で退任した。 就任時の年齢53歳 発表日1989年10月23日 就任日1989年10月23日の取締役会
直前の役職副社長 就任の背景スピード昇格社長人事の4か月前の1989年6月、3人の副社長が一斉に退任した。この中には、次期社長候補の1人とされていた奥本英一朗副社長も含まれていた。留任した山名二郎副社長も、アジア金融投資会社の初代社長に就任することが内定していた。同時に、同前雅弘専務ら4人の専務が副社長に昇格した。在任8年8カ月になる土井定包社長が近い将来、同前氏にバトンタッチするための社内体制を整える人事だった。同前氏は常務から副社長になってからわずか4か月で社長へのスピード昇格を果たした。 同時に行われた幹部人事土井定包社長は副会長に
生年月日1936年(昭和11年)生まれ 大学京都大学法学部
入社年次1959年(昭和34年) 社内キャリア株式、債券、国際部門を中心に歩んだ。
就任時の抱負「経済の変動にかかわらず、安定した収益を確保できる筋肉質の経営体質を目指したい」 就任前の人物評「若い人を含め部下の意見によく耳を傾けるネアカ人間」などの評判が聞かれた。 不祥事飛ばし事件を公表社長就任から1か月後の1989年11月、菊一岩夫社長時代の損失補填を発表した。 バブル末期の飛ばし事件社長退任時点の大和証券の当時の説明によれば、飛ばし事件の対象になったのは東急百貨店グループ、東急不動産など6社の計7件。いずれも事業法人第2部長や神戸支店長などを歴任したA部長(当時48歳)が手掛けていたもので、株価の下落で次の転売先が見つからなくなったことから、1991年秋に次々と行き詰まったという。
社長退任後のポストヒラ取締役。後に代表権のある副会長に昇格したが、再び退任を余儀なくされた。 |
土井定包(どい・さだかね)【就任期間】 1980年9月~ 1989年10月 |
山一、日興証券との3つどもえのシェア争いから1歩抜け出し、2位の座を確保した功労者。大和証券のドンと呼ばれた。 社長在任期間は9年に及んだ。社長退任後も強力な影響力を行使し続けた。大和の歴史において、創業者を除けばダントツの存在感を発揮した経営者だった。 就任時の年齢52歳 就任日・発表日1980年9月24日(臨時取締役会) 直前の役職副社長 就任の背景前任の菊一岩夫社長の後継有力候補は千野冝時副社長だった。
同時に行われた幹部人事社長人事の3か月後の12月17日の株主総会後の取締役会で、以下の人事が行われた。
生年月日1928(昭和3)年 出身佐賀県佐賀郡久保田町 大学長崎経済専門学校(現長崎大学)
入社年次1948年(昭和23年)
社内キャリア個人営業一筋個人営業部門一筋に歩んだ。
実績・取り組み不動の2位に土井氏は社長になるや攻撃的な経営体質づくりに専心し、野村追撃体制をとった。「野村7割経営」を標榜した。
バブル時代、海外でリサーチ力を強化
このころのバブル時代、日本企業によるアメリカ企業の買収が急増した。米国大和証券の調べでは、1987年106件、金額で8118億円。2年前と比べると金額で10倍近い伸びだった。
麻雀政治で人事掌握麻雀(マージャン)好きで有名だった。月に1、2回、役員や部長たちとマージャンに励んだ。経営者のマージャンというと、当時は料亭で芸者さんがそばにいて、というイメージだった。しかし、会社の近くのジャン荘でやった。腹心の部下と麻雀をするため、その取り巻きは「土井・麻雀人脈」と呼ばれた。
日本初の映画投資組合に出資子会社のベンチャーキャピタル「日本インベストメント・ファイナンス(略称:NIF)」を通じて、
松竹や住友商事などによる日本初の映画投資組合に1億円出資した。
不祥事大和の暗部に数多くかかわった。 仕手戦専務時代、平和相互銀行のヂーゼル機器株をめぐる仕手戦において、買い占め玉を投資信託に沈めるシナリオに関与したとされる。 三協エンジニアリング損失補填事件社長時代に三協エンジニアリング損失補填事件、リクルート事件などにも直面したが、責任は免れた。 リクルート事件リクルート事件では、リクルート・コスモスの上場時の主幹事会社として批判を浴びた。この事件では、当時の常務がひとり泥をかぶる形になった。 逃げるように社長交代損失事件が明るみになる1カ月前の1989年10月下旬に突如、社長交代を断行し、副会長になった。「在任9年の長期政権の人心一新」といわれたが、1989年10月初めに三協エンジニアリングの社長が脱税容疑で東京地検に逮捕されたため、「損失」事件の発覚の先手を打って、社長が交代したのでは、という見方が出た。 損失補填事件後に損失補填事件が発覚した際に、社長の同前氏は引責辞任したが、土井氏は無傷で1991年(平成3年)に会長になった。 社長退任後のポスト副社長 会長に就任62歳で会長になった。1997年12月まで会長をした。1998年に顧問に退いた後も社内で隠然たる力を持った。 財界・団体・社外活動日本証券業協会会長に就任1994年7月、日本証券業協会会長に就任した。出身母体である大和証券の会長との兼務に、大蔵省は最後まで難色を示した。
アナリスト協会会長1996年、日本証券アナリスト協会会長に就任した。アナリスト(調査、分析の専門家)の質と量の両面で養成を図った。 日本銀行参与日本銀行参与も務めた。 65歳で運転免許を取得1993年、65歳の誕生日を機に、車の運転免許を取得した。休日などに娘の車を借りて、人が少ないところで運転した。
晩年晩年は持病の糖尿病を抱えながら、認知症の妻を介護する日々だった。 地元に貢献社長就任後から役員賞与の多くを佐賀県の旧久保田町に寄付した。寄付を基に、母校の思斉中に武道場が建設された。
永眠日2009年4月
享年80歳 死因肺炎 |
菊一岩夫(きくいち・いわお)【就任期間】 1974年7月~ 1980年9月 |
就任日1974年7月2日 直前の役職筆頭副社長 生年月日1915年(大正4年) 出身山口県 大学下関商業学校
入社年次1923年卒業(昭和8年)、藤本ビルブローカー証券に入社 社内キャリア門司支店(北九州市)
実績・取り組み債券ビジネスの強化を打ちだした。 営業部門の強化営業関係部門の組織を拡大させた。とくに法人の資金運用が重視された。法人課を設置していなかった小規模な支店でも、法人課または公社債営業課が設置された。
偏った人事1979年(昭和54年)の役員人事では、退任役員6名のうち管理部門と個人営業部門出身者がそれぞれ2名いだったのに対し、新任取締役6名のうち4名は法人部門出身だった。
不祥事美術品の不正購入問題1980年、菊一社長による美術品の不正購入問題を、経済誌が報道した。社内が大揺れとなった。 内紛へ菊一社長は、経済誌にネタを漏らした「犯人」が、国際派で知られる千野宜時副社長と決めつけた。この結果、社内は、菊一派と千野派が二手に分かれて対立した。 プリンス千野を棚上げ後任社長の人事では、批判の急先鋒だった千野副社長が棚上げされて副会長に就任した。抜てきされる形で土井副社長(当時)が社長の座についた。 損失補填(飛ばし)事件大和証券は1989年11月27日に記者会見し、菊一岩夫社長時代の損失補填を明らかにした。
社長退任後のポスト相談役 永眠日1995年11月 享年80歳 死因じん不全 死亡場所横浜市栄区の横浜栄共済病院 葬儀の喪主長男・利彦(としひこ)氏 |
山内隆博(やまうち・たかひろ)【就任期間】 1970年11月~ 1974年7月 |
証券不況を受けて、住友銀行から招かれた。 就任日1970年11月 就任の背景1964年11月、大和証券は住友銀行から山内隆博氏を役員として迎えた。代表権のある専務に就いた。
同時に行われた幹部人事安部志雄社長は会長に。
生年月日1915年(大正4年)3月3日 出身静岡県磐田市 子供時代磐田郡見付小学校卒業、東京高千穂中学校卒業、東京成蹊高校卒業 大学東京帝国大学経済学部
入社年次1938年、住友銀行に入行 経営理念「盛り上がりの経営」を提唱した。 実績・取り組み第2次株式公開ブーム株価の上昇もあって、1971年~73年に日本で第2次株式公開(IPO)ブームが起きた。大和証券は、コクヨ、ダイエー、京セラの上場の幹事社となった。
投資顧問会社を設立1973年(昭和48年)6月1日、「大和投資顧問」を設立した。証券会社がグループ企業の会社名に「投資顧問業」を明記したのは初めてだった。 イラン国営石油会社の私募債幹事1972年(昭和47年)11月のイラン国営石油化学会の社債発行において、主幹事を務めた。
アラブ投資家向け日本株投信の設定オイルマネーの日本市場への導入を促進した。アラブ投資家向けに日本株の投資信託を設定したの設定した。 社長退任後のポスト1974年6月に取締役会長に就任した。
財界・団体・社外活動1978年1月から2年間、日本証券業協会会長を務めた。
永眠日1990年10月 享年75歳 死因肝不全 死亡場所東京医科大学病院(東京・新宿) |
安部志雄(あべ・ゆきお)【就任期間】 1963年4月~ 1970年11月 |
三代続けて藤本ビルブローカーの出身者。 出身母体藤本ビルブローカー 就任日1963年4月 直前の役職副社長 生年月日1901年(明治34年) 大学東京帝国大学法学部
入社年次藤本ビルブローカー銀行入行
社内キャリア台北支店長、名古屋支店長などを歴任。
家族長男は安部朝弘・大和総研専務息子(長男)の安部朝弘(ともひろ)氏は、大和総研の専務になった。
実績・取り組み店舗の統廃合不採算店舗の統廃合に取り組んだ。店舗数が1963年(昭和38年)9月末で112に達し、肥大化が顕著だった。統廃合に伴い、男子職員は転勤となった。 就任2年目の1964年6月に神田支店(東京)など5店を閉鎖。それ以降、全国的に閉鎖を行った。1965年9月末には店舗数が83に減った。 対象店の女子職員等については、当時は原則として現地採用だっため、転勤させられなかった。そこで、人事部長が1人1人面接の上、再就職の斡旋を行った。 投資コンサルタント制度の導入1965年(昭和40年)11月、投資コンサルタント制度を導入した。証券取引法の改正に伴い、次元の高い投資勧誘態度を確立するためだった。社員の専門知識と顧客に対する投資指導能力を向上させることを目的としていた。
永眠日1974年6月24日 享年73歳 死因役員を兼務していた日本証券協会の会合の場で倒れた。そのまま死去した。 |
福田千里(ふくだ・ちさと)【就任期間】 1957年11月~ 1963年4月 |
直前の役職副社長 就任の背景前社長の同期かつ同窓前社長の岡村氏と同期。かつ大学の同窓であった。年齢は岡村氏の3歳下だった。
既定路線福田氏の社長就任は、岡村氏の既定の方針だったという。1953年(昭和28年)、岡村氏の社長就任時に副社長ポストを導入し、1年後に福田を副社長に指名した。社長昇格が既定路線となった。 二代続けて藤本から二代続けて藤本ビルブローカーからの社長となった。発足以来続いてきた「日本信託」と「藤本」出身者が交互に社長に就任するという「たすき掛け人事」が終わった。 同時に行われた幹部人事岡村社長は会長に。
大学京都帝国大学経済学部
入社年次1921年(大正10年)
社内キャリア1942年(昭和14年)1月、台北支店長から本店に戻った。債券部長に就任した。 抱負「昔から石橋をたたいて渡るということがある。渡る前にたたいてみるという細心の注意は必要だが、たたいてみて安全だと見きわめながら遂に渡らずに終るものもある。それではだめだ。大丈夫だと思ったら思い切って渡ることだ。そこに細心大胆という言葉の意味がある」 経営方針自らの座右の銘である「細心大胆」を大和証券の社訓に制定し、経営の基本方針とした。 実績・取り組み社訓の制定や日の丸精神の発揚を行った。 社長退任後のポスト会長
財界・団体・社外活動日証協の会長に(1963年~1968年)1963年(昭和38年)4月、社長時代に日本証券業協会(当時:日本証券業協会連合会)会長も務めることになった。大和証券が同協会の会長を務めるのは初めてのことであった。
永眠日1992年12月26日 享年96歳 |
岡村新市(おかむら・しんいち)【就任期間】 1953年11月~ 1957年11月 |
同時に行われた幹部人事社長だった加藤和根は会長に 大学京都帝国大学経済学部
入社年次1921年(大正10年)
社内キャリア海外勤務1927年(昭和2年)から、藤本ビルブローカーの米国法人「ゼ・フジモト・セキュリチース・コンパニー」に配属された。在外邦人を相手に日本の債券や株式を販売した。
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加藤和根(かとう・かずね)【就任期間】 1949年9月~ 1953年11月 |
経済学者としても活動した知性派 出身母体日本信託銀行 就任1949年(昭和24年)9月 直前の役職専務 就任の背景政界に転出した会長が辞任3年前、渡辺自身が当社の会長として迎え入れた松嶋喜作が、取締役辞任を申出た。政界活動に専念するためだった。役員としての任期が満了となるタイミングだった。
同時に行われた幹部人事渡辺安太郎社長は会長に 大学東京高等商業
入社年次1918年(大正7年)、住友銀行
社内キャリア日本信託銀行東京支店で、藤本ビルブローカーとの合併業務を担当した。 人柄・人物『銀行原価計算』『貸付事務概論』などを著している学究肌の人物であった。 実績・取り組み証券民主化運動によって一般個人の株投資への関心が深まったのを受けて、出張投資相談を開設した。「タダで通勤」のキャッチ・フレーズで1950年(昭和25年)4月以降、主要ターミナル駅に臨時投資相談所を開設していった。当初の私鉄駅構内から百貨店や商店内にも置かれるようになり、設置場所も全国へと拡がった。
妻・加藤美知子さんの死去永眠日:1986年3月享年:84歳死因:急性腹膜炎 |
渡辺安太郎(わたなべ・やすたろう)【就任期間】 1945年4月~ 1949年9月 |
終戦の直前に就任し、戦後の混乱期に指揮にあたった。 出身母体藤本ビルブローカー 直前の役職専務 同時に行われた幹部人事車谷馬太郎社長は空席となっていた会長職に転じた。
大学京都帝国大学法学部 入社年次1920年(大正9年)、藤本ビルブローカー銀行へ入行。 社内キャリア北九州市の門司(もじ)支店長などを歴任。1934年、東京支店に赴任。
実績・取り組み第二次世界大戦の真っただ中。終戦の4カ月前の1945年4月に就任した。証券取引所が再開されるまでの4年5ヵ月務めた。戦後の苦難と混乱の時期にあって、経営再建の陣頭指揮をとった。
会長に元興銀幹部を招く興銀の理事だった松嶋喜作を会長として招いた。渡辺社長にとって、1918年京都帝国大学卒業の先輩だった。1946年7月の人事だった。代表権を持つ会長となった。
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車谷馬太郎(くるまや・うまたろう)【就任期間】 1943年12月~ 1945年4月 |
藤本証券(藤本ビルブローカー)と日本信託銀行が合併し、大和証券が誕生した。
就任時の年齢59歳 就任日1943年12月 直前の役職日本信託銀行社長 就任の背景大和証券の発足1942年、政府の強制により、証券業界の再編が行われた。国家総動員法に基づくものだった。
「日本信託銀行」 とは大和証券の母体の一つとなった株式会社「日本信託銀行」 は、1920年に設立された。
同時に行われた幹部人事会長には、藤本証券の会長だった三輪小十郎(みわ・こじゅうろう)氏が就任。 生年月日1883年(明治16年)9月 出身東京府 大学東京高等商業専攻部
入社年次1907年
社内キャリア大学を卒業後、日本銀行に入行した。1918年まで11年間在籍した。
社長退任後のポスト会長 |
藤本清兵衛(ふじもと・せいべえ)【就任期間】 1902年~ 1943年12月 |
藤本清兵衛は1902年(明治35年)、現在の大和証券を創業した。 自ら経営する「藤本銀行」の一室において立ち上げた。「藤本ビルブローカー」というブランドで、当初は個人事業としてスタートした。 生い立ち藤本清兵衛は1870年(明治3年)10月15日に生まれた。 出生場所は、和歌山県海草郡(現:海南市)の日方(ひがた)町だった。 幼少期の名前は「柳為之助(やなぎ・ためのすけ)」生まれたときの名前は「柳為之助(やなぎ・ためのすけ)」だった。藤本清兵衛という名前は、大人になってから改名して付けた名前だ。 実家の親は、米穀商を営んでいた。父親の名前は柳仁兵衛(やなぎ・にへえ)。母親は柳禰(やなぎ・たね)。長男として生まれた。 学業は優秀だった。12、3歳のころ、郡内の小学生を集めて開かれた競争試験で、文部省の賞品を授与されたほどだった。 小学校を卒業した後、家業(米穀商)に従事した。しかし、「どうも田舎ではつまらぬ。大都会へ行って一修業したい」と考えるようになった。 18歳で大阪へ1887年(明治20年)に大阪へ転居した。18歳だった。米穀仲買商「藤本商店」で働き始めた。英語学校にも通った。 翌年の1888年、藤本商店の店員として正式に採用された。 藤本商店とは藤本商店は、江戸時代から続く米穀仲買商だった。当初の名前は「住吉屋」だった。 住吉屋を発展させたのは、4代目・住吉屋清兵衛だった。 住吉屋清兵衛は1841年、「丹波国(たんばのくに)」だった。丹波国とは、現在の京都や兵庫などにまたがる地域である。 明治時代に「住吉屋」から「藤本商店」に明治維新の後に藤本姓を名乗るようになり、「初代・藤本清兵衛」となった。米穀仲買商の屋号も「住吉屋」から「藤本商店」に変えた。 米穀相場の激変で大きな利益を得る初代・藤本清兵衛は商才に恵まれており、明治維新後における米穀相場の激変の中にあって、多大な利益を得た。同時に、資本を蓄積して家業を盛大ならしめた。 養女と結婚し、後継ぎになるそのような歴史を持つ「藤本商店」に、柳為之助(後の藤本清兵衛)は入社したのだった。 柳が入社してから4年後の1891年10月、「初代・藤本清兵衛」が死去した。 その後、柳は、初代・藤本清兵衛の養女・壽(川勝重介の孫、八木重助の娘)と結婚した。そして、藤本家の家督を相続した。 名前を変更し、「2代目・藤本清兵衛」を名乗るようになった。この2代目・藤本清兵衛こそが、大和証券の創業者となる人物である。 「藤本銀行」を設立2代目・藤本清兵衛(以下、「2代目」を省略)は、紡績業に進出した。日清戦争後に需要が増えたためだ。さらに、金融業への進出を決意し、1895年(明治28年)、「合資会社藤本銀行」を設立した。 手形仲買(ビル・ブローカー)業への進出を決意藤本銀行の設立後、藤本清兵衛は手形仲買(ビル・ブローカー)業の開設の必要性を認識した。 手形の仲買が必要だと感じた理由は、以下の通りである。
以上の理由から、手形仲買に進出することにした。こうして藤本ビルブローカーが誕生したのだった。 藤本ビルブローカーの発足後に大和証券となる「藤本ビルブローカー」は1902年(明治35年)、藤本銀行の1室で産声を上げた。 当初のビジネスは、商業手形の売買や短期金融取引(コール取引)だった。業務内容は以下の通り。
英国の手形仲買人をモデルになお、ビル・ブローカーは和訳すると「手形仲買人」あるいは「短資会社」である。 藤本清兵衛は、訳語を使うのでなく、あえてビル・ブローカーというカタカナ語を社名に使った。 その理由は、英国におけるビル・ブローカーをモデルとしたためだ。英国のビル・ローカーは、手形仲買にとどまらず、銀行に近いような業務を営んでいた。 清兵衛自身も手形仲買だけでなく、銀行と個人、銀行間の資金融通のための幅広い業務を目指していたのだった。 銀行間の資金融通とはいえ、日本でビル・ブローカー業を始めたのは藤本清兵衛が最初ではない。 1899年(明治32年)には、実業家・諸井時三郎(諸井春畦)が東京でビル・ブローカー業務を実施していた。 しかし、こうした既存業者は、手形売買の代理業務に限定されていた。 英国のビル・ブローカーのような業務をカバーするビル・ブローカーは「藤本ビルブローカー」が先駆者だった。 日糖の倒産で経営危機に藤本ビルブローカーは1906年(明治39年)10月、株式会社化を果たした。経営は順調かに見えた。 しかし、一気に倒産の危機に瀕することになった。 1909年1月13日、日本最大の精糖会社「大日本製糖株式会社」(日糖)が債権者に対する支払停止に追い込まれた。藤本ビルブローカー銀行は日糖に対して多額の債権を有していた。 藤本清兵衛自身も、日糖の監査役を務めていた。 会社整理日糖の破綻が直接の原因となって、藤本ビルブローカー銀行も債務の支払の停止を発表した。すなわち、会社整理に追い込まれたのだ。1909年(明治42年)3月18日のことだった。 八木與三郎(藤本清兵衛の妻・壽の実兄)、著名実業家・渾大防芳造(こんだいぼう・よしぞう)の2人が整理委員となった。 阪急の共同創業者・平賀敏のもとで復興藤本清兵衛の知人である実業家・平賀敏が顧問に就任した。平賀敏は、小林一三と共に阪急を創業した人物である。 会社整理の責任を取って、藤本清兵衛は1909年(明治42年)9月27日の臨時株主総会にて辞任した。これを受けて清兵衛の実弟・柳広蔵が後任会長に就任したが、翌年辞任。平賀敏が会長となった。 1933年に銀行業を廃止し、証券業に専念藤本グループは1933年(昭和8年)に銀行業を廃止した。藤本ビルブローカー証券として、証券業に専念することになった。 1942年(昭和17年)7月1日、「藤本証券株式会社」に商号変更した。 退任後藤本清兵衛は退任後、隠居生活を送ったわけではなかった。1910年(明治43年)7月には、藤本商店の名で有価証券信託業を開業した。以後、土地会社の創設に深く関与した。銀行経営にも参画した。 大正時代までは事業家として活躍を続け、多数の会社の経営陣に名を連ねた。同い年の妻・壽とは一生を添い遂げた。なお、一男二女をもうけた。 |
参考:酒井剛志